●秘書への転職

きつい仕事でも、それを乗り越える楽しさが少し分かってきた頃、学生時代からお世話になっている先輩から、国会議員の「秘書」のお話しをいただいた。
 突然のことだったのでさすがに驚いたが、なぜか「はい。宜しくお願いします。」と言っていた。

 日立ソフト(株)でまだまだやりたい仕事があった。政治の世界も初めてで、「選挙のたびに左右される不安定な仕事」という不安もあったため、後になって少し後悔もしたが、元来さっぱりした性格でもあったせいか、

「一度返事をしたのだから一生懸命やらせてもらおう」

と心の中で決めていた。


●第2のスタート
 そして、1994年3月、日立ソフト(株)を退社し、衆議院議員 上田晃弘(公明党1期生・旧選挙区で神奈川4区選出)の公設第2秘書として、第2のスタートをきった。

 職場は、衆議院第2議員会館(国会の裏手にある)226号室。職場にたどりつくまで道に迷った事もあったが、それ以上に驚いたのは、普段テレビで見る「大物政治家」と呼ばれる人達が、普通の顔をして僕の前を普通に歩いて行く事だった。当たり前と言えば当たり前の事なのだが、緊張した事を覚えてる。
 初めは「皆さんに挨拶したほうがいいのかな?」なんてことも思ったが、そんなことをしていると目的地にたどり着くまで何時間もかかってしまい、本末転倒になってしまうと思い控える事にした。

 いざ仕事。国会議事堂やその周辺施設を覚えたり、事務所の掃除をしたり、電話や来客の応対、新聞のスクラップ、その他書いているとキリがない。僕は、一番年下の秘書だったので、「すぐやる課」のような仕事だった。
 「上田晃弘」という人も、すごい人であることは知っていたが、どんな人なのか分からない。
 とても人を大切にする人で、僕のことを「しん」と呼び、ご機嫌のときは「しんちゃん」と呼んだ。

 当時は、ちょうど「細川連立内閣」から新進党結党へ向かっていた頃で忙しく、毎晩2時3時まで働いた。自民党政権との二大政党制を実現するための大事な仕事と思い、死ぬ気で働いた。

 残念なことに「新進党」は解党したが、公明党以外の秘書ともさまざま仕事をする中で、生涯の友も出来た。

●1996年10月。衆議院議員選挙。

上田晃弘代議士にとって2回目の選挙である。
 毎日、朝から夜中まで上田晃弘さんに随行した。クタクタになった。それでも、心から尊敬し、大好きな「上田晃弘」のために頑張った。

  10月25日、投票日。夜中に当落が明らかになった。
 落選。
  その瞬間も「上田家」の皆さんと一緒だった。上田晃弘さんを車に乗せ事務所に行った。皆さんに大変申し訳ない思いで一杯で涙も出なかった。これから先のことも考えられなかった。

 しかし、翌日から、次期総選挙をめざし、上田さんとスタートした。
 それからちょうど2年間、上田さん、先輩秘書と私の3名で浪人生活を過ごした。人の温かさと、その裏を見た2年間だった。悔し涙を流して寝付けない夜も何回となくあった。

「でも、上田さんを何としても国会に送ろう。」
「そして、国会で共に働きたい。」
との一心で頑張った。


●1998年10月。上田晃弘さんとの別れ。

1998年10月、上田さんが、元の職場である公明党本部に戻り、次期衆院選に出馬しないことになった。
 僕は泣いた。これからのことより、上田さんと別れてしまうことがつらかった。

 でも、上田さんは我々2人の秘書の再就職をすでに手を打ってくれていた。
 同じ公明党の上田いさむ代議士の秘書として。

「上田いさむ事務所で一番よく働くと言われる人間になれ」

と上田晃弘さん最後に言われた。